聖庵斗椀の誘惑 蒲原直樹

 はでやかな夏服に白い帽子の少女が坂を登っていった。登り道の途中にある農家から出てきた老人は「こんな所にどうして若い娘が?」といぶかった。
「こんにちわ、おじさん」
 じろじろ見ていた老人に、少女は臆せず声をかけた。
「聖(ひじり)庵って、この山の上にあるんですよね?」
 老人は少し動揺した。
「なにしに行くんだね、あんな所、若い娘さんが行くような場所じゃねえよ」
「斗椀(とわん)和尚さんって偉いお坊さんがいるんでしょう?その人にお願いがあって来たのよ」
「お願いって……修行中のお坊さんの所にあんたみたいな若い女の人が来たら、邪魔になるんじゃないかね。それにあの人はまた断食の修行に入ったらしいから、当分会えないよ」
「そうですか。でも、ぜひお会いしたいんです。修行が終わるまで待ってますから」
 少女はそう言うと、スカートをくるっと翻してまた急な山道を登っていった。老人はぽかんとして後ろ姿を見送った。

 聖庵は草葺きの粗末な建物だったが、それは岩穴の入り口に建てられており、想像もつかない大きさの空間が後ろに控えていた。
「ごめんください」
 入り口の扉代わりのむしろをたくし上げて、少女は庵の中に入った。ちんちくりんの僧衣を着た少年のような若い坊さんがバケツからヤカンに水を入れている所だった。小坊主はぽかんとして少女を見上げた。
「斗椀和尚さんに会いに来たのよ。今、お仕事中?」
「和尚さんは……十日前から入禅されました。まだ一週間はおいでになりません」
 小坊主は目を白黒させながら応えた。
「ちょっとお会いできないかしら?可愛い小僧さん、お礼をあげるよ」
 都会にいてもめったにお目にかかれない美しい少女が微笑みながらそう言うと、小坊主は真っ赤になった。
「だめです。修行の邪魔をすることは何人たりとも許されないのです。私はこの庵に誰も入れないように命令されています。外に出て下さい」
「なんだ、親切じゃないなあ、女の人に優しくしないと偉くなれないぞ」
 少女は言われた言葉に頓着せず、悠然として小坊主の傍らに座り込んだ。
「ねえねえ、和尚さんってどういう人?すごい霊能者だって本当?」
 薄いブラウスの上半身をこすりつけられて、小坊主は失神しそうになりながら、なんとか意識を保とうとして歯を食いしばり口の中で般若心経を唱えた。
「南無般若波羅密多……和尚さんのことは私などにはわかりません。もう何十回も断食修行をして、あの世とこの世を行ったり来たりしていて、凡庸の人間には想像もつかない経験を持っている方で、私にはおっしゃる事の半分もわかりません。霊能力とか超能力とかいう俗な呼び方ではなく、本当の法力を持ったお方です」
「そうかあ。それなら、私が今日ここに来ることももうご存じのはずよ、ねえ、会わせてよ」
「そういうわけには行きませんって」
 小坊主は青く剃り上げた頭をなでながら言った。
「和尚さんはけっこうおっかない方なんです。規則やご指示を破ったらきついおしかりを受けます。普段は穏やかな人なんですが、それだけに怒らせると恐いんです。もう帰って下さい」
「私も和尚さんが出てくるまでここで待つわ」
「とんでもない」小僧は目を白黒させた。
「あと何日かかるか、誰にもわからないんですよ。それに和尚さんも、自分はもう若くないし今度の修行で命を落とすかもしれない、とおっしゃっていました。私は一月待つように命じられているんです。山は冷えるんですよ、ここにはあなたをお泊めする寝床も食料もありません。早く里に降りて下さい」
「そこに藁床と寝袋があるじゃない」
「これは私が寝る場所です」
「いいじゃない、いっしょに寝ようよ」
「とんでもない」
 小坊主が必死に首を振るので少女も諦めた様子だった。
「しかたないわ。じゃあ、帰るから、その前にお茶を一杯ちょうだいよ」
 少女が諦めたようなので、小僧はほっとしてさっきまでやっていた作業に戻った。水の入ったヤカンを携帯コンロに置き、火をつける。そのヤカンの中に直接ティーパックを投入した。しばらくするとヤカンが沸騰したので小坊主は汚い湯飲みを二つ取り出したが、その間に少女がヤカンの中に薬のようなものを投げ込んだのに気がつかなかった。小坊主はゆっくりとお茶を飲み、少女は飲むふりをした。
「じゃあね」
 少女が出ていったあと小坊主は無性に眠くなってきて、我慢が出来ずに横になると、たちまちいびきをかきだした。頃合いを見計らったように少女がまた庵の中に入ってきた。彼女は眠っている小僧の寝顔を確かめると、庵の奥へと進んだ。
 扉の代わりに置かれている屏風をのけると、粗末な板壁の中央に大きな穴が開いている。そこに岩穴の入り口があった。少女は真っ暗な穴の中へ恐れる気配もなく踏み込んだ。人工の穴なのか自然の造作か、洞窟はかなり長く続いていた。少女は懐からペンシルライトを出して足元を照らす。そして足早に洞窟の奥へと進んで行った。

 斗椀和尚は三日前からヨーガの三昧境に入り、ランシン・バルド(現世)を抜け、チカイ・バルド(死)を過ぎてチュウニー・バルド(本質世界)の光を感じていた。彼はチカイ・バルドに入るところで結跏趺坐が崩れ、左側面を下にして台座に寝そべるように倒れていた。傍目に見れば呼吸も心臓も停止し、その全身から血の色も消えていて、誰もこの修行僧が生きているとは思わなかったろう。
(ああ、おれは光の世界へ吸い込まれようとしている……このまま『無為の道人』へと転成し、現世を捨てるべきなのか……それもまた修行のたまもの)
 彼がそう考えていたとき、突然元の世界へ引き戻された。まばゆい光と浮遊感を伴う感覚世界は崩壊し、急速に手足が重たくなり底なしの闇が迫った。あまりに急な転落に和尚は苦しいうめき声を出した。彼はその自分の声で目が覚めた。気がつくと和尚は若い娘に抱きかかえられ、熱い飲み物を口移しで注がれていた。
「和尚さん、気がつきました?」
 少女はにっこり微笑んだ。彼女の耳にはさんだペンライトの光が、闇になれた和尚の瞳にまぶしく映っていた。
「死んでるかと思った。ブランデーのミニボトル持ってきてよかったわ」
 少女がささやき、斗庵和尚はその美しい顔をようやく認識した。声を出そうとするが、腹に力が入らない。もっと体を起こしてくれというジェスチャーをし、少女がそうしたのでやっと気道が通って声が出せるようになった。
「わしは来世の入り口にいたのだよ……とつぜん起こされたから、下手をすると魂が体に戻れなくなるところだった。お嬢ちゃん、無茶をしてはいけないよ。いったい、どこからこんな所にやってきたのかね?誰も停めなかったのかい?……升椀のやつ、居眠りでもしていたのかな」
「聖庵にいた小坊主さんですか、私が眠らせたんです」
「眠らせた……?」
 斗椀和尚は少女の耳からペンライトを取り、光を少女の顔にあててしげしげと眺めた。
「……こんな所に若い娘が現れるはずもなく、いれば魔物と思ったが、そうでもなさそうだ。かといって、まともな娘さんでもないらしい。どうしたことやら……」
「あたし、和尚さんに頼みたいことがあって来たのよ」
 言いながら少女は和尚の下半身をさわっていた。そして意外なものを見つけて笑いだした。
「和尚さん、硬くなってるじゃない」
「それを触ってはいけないよ」和尚は苦笑いした。
「修行で精も根も尽き果てているはずなのに、こういう事が起こる……枯れかけた木が花を咲かすように、死の危険を感じた体が生殖反応を起こしているのだよ。あんたに欲情しているわけではない……まあ、ないとも言い切れないが」
「本当?」少女は嬉しそうに言った。
「じゃあ、ぬいてあげましょうか?」
「まあまあ」あわてて和尚が首を振った。
「酒食・女色は修行の最大の邪魔物でな、遠ざけるにしくはない。しかし、み仏は煩悩あるものがそれを押さえることが修行だとおっしゃっておる。不能者が禁欲しても修行にはならんという道理でな……わしが不能でない証拠は出来たわけで、仏様に大きな顔ができるよ」
 斗椀和尚はそう言ってニヤリと笑った。

 斗椀和尚が山を下りるというのでお寺はちょっとした騒ぎになった。和尚に印可を与えてもらおうとする高弟たちが色めき立ち、めったに和尚に会えない末弟たちは歓喜にあふれ、そこへ和尚の法力で業病や怨霊を退治してほしいと望む檀家一同、高名な僧侶を一度見てみたいという野次馬たちが一時に寺に押し掛けたからだ。しかし彼らはたちまち失望することになった。斗椀和尚は寺には戻らなかったのだ。
 斗椀と弟子の升椀、そして斗椀を迎えに来た「百合」と名乗る少女の三人は、都下立川市のとある大きな民家にいた。横田基地もほど近く、時折米軍機の轟音も響いた。
 百合は簡単にこの家の事情を話した。この家の長男、小学4年生になるマモルがある日、発熱してうわごとを言うようになり、次第にそれが不気味な内容を伴うものになった。今では時々起きてわめきちらすだけの寝たきり状態になってしまった。これは何か悪いものがとりついたのだろうということで、近所で評判だった霊能少女の百合がエクソシストとして呼ばれたのだった。しかし、百合にもマモルにとりついた魔物は排除できなかった。そこで今度は百合が斗椀和尚を招くことを考えたのだという。
 ほどなく彼らは応接室から別室へと案内された。そこにはベッドに横たわる少年の姿があり、憔悴した顔の両親がいた。
「和尚さま、ご修行の最中にわざわざお越しいただき、もうしわけありません」
 父親らしき男がそう言った。
「子細は百合嬢にお聞きしました。なに、仏教の最も肝心な教えは『利他を行う』ことでしてな、『自分がまだ救われずともまず他人を救え』と道元禅師も諭しておられます。山にこもるのだけが修行にあらず、これも立派な修行と心得ております」
「なにとぞ、息子をお救いください」
 和尚がうそぶくと、母親らしい女性が泣き声をあげて平伏した。斗椀和尚は深く頷き、升椀に命じて仏壇を造らせ、香をたいた。さらに部屋の四方に手書きの札を貼らせ結界を造り、自分一人がそこに残った。他の人々は隣室で様子を見守るしかない。やがて長い読経が始まった。
「ねえ、和尚さんが今詠んでるお経はなに?」
 百合が升椀に尋ねた。升椀は自分を色仕掛けと薬でたぶらかしたこの少女が好きではない。
「金剛経のようですが私にはわかりません」そっけなく応える。
「和尚さん、ほんとにマモル君を助けてくれるかな?」
 再度の問いに升椀はちらりと軽蔑の眼を向けた。
「和尚様は常日頃こうおっしゃっています。人間の生・バルドゥは言葉からなる架空のものであると。そこに入り込む悪霊狐狸魔物の類もすべて言葉のものであると。そこを理解すれば恐れるものはなにもないということです」
「ふうん」百合は疑わしそうに首をひねった。

 斗椀和尚が読経を始めて二時間、ベッドに横たわっていた少年がむくりと起きあがった。
「くそ坊主、何しに来た!」
 少年のものとは思えないしわがれた野太い声で叫び、彼は斗椀をにらんだ。
「オンキリキリオンキリキリ……邪険のともがらは早々に退散せよ、現世は汝らの来るべき場所にあらず……」
「うるせえんだよ、このナマグサ坊主。てめえの腹の中はお見通しだぞ」
「私はおまえと問答する気はない。さっさとその子の体から出ていけ、そうすれば黙って見逃してやろう」
「生意気な口をきくな」少年は不気味に顔を歪めて笑った。
「おまえは物欲や女色からは抜け出したつもりだろうがまだまだ雑念の塊さ。実際こうしてお節介にやってきたのも、名誉欲と支配欲からではないか。違うか?」
「オンバサダ、アビラウンケンソワカ……」和尚は応えない。
「おまえは神霊というものを甘く見ている。自分にまさる魔物はいないと思っている。まったく傲慢な、増長慢の極みさ。おれはおまえなど、虫けらほどにも感じないぜ」
「南無大師遍乗金剛……」
「まあせいぜい役に立たないお経の空文句でも唱えていればいいさ、おれにゃあ屁でもないからな。そのうちこのガキの両親がインチキ坊主だと騒ぎ出すことだろうよ」
 少年はケラケラと笑った。和尚は読経にさらに熱を入れた。彼の額からは大量の汗が流れ出した。やがて和尚は三昧境に入っていった。
 和尚の意識は現世(ランシン)バルドゥを離れ、夢のバルドゥと呼ばれる領域に入った。ここでは全てのものが外見ではなく本質として存在するのだった。斗椀和尚はそのままの僧侶として暗い空間に立っていた。そして目の前の少年と魔物をよく見るために眼を見開いた。真っ黒な大きなものがそこにあった。和尚はあっと驚いた。
「やあ、ここに来たか」魔物は言った。
「しかし、それだけではな。あの小娘も来ることは来たが、何も出来なかったぜ。おれのこの姿を一目見て、たまげて逃げ帰ったんだ。おまえも同じことさ」
 和尚は信じられない面もちで小山のような魔物を見上げた。それはまさしく暗黒神マハーカーラだった。
「あなたがなぜこんな所にいる?……私を試しに来たのか?」
「どうした、気後れしたか。しょせんは有限なるものの力、そこまでだろう。それともおれを倒して人間の限界を越えてみるか?相手になってやるぞ」
 和尚はしばらく暗黒神をにらんでいた。相手はただの魔物ではなく、造物主のもう一つの化身である闇の神だ。法力を得たとはいえ、一人の僧侶のかなう相手ではなかった。しかし斗椀和尚はこれはブッダが与えた自分に対する試練の一つだと考えて、持てる力の全てを使って戦うことを決心した。
(夢のバルドゥでは相手の術中にはまってしまう。さらに高次のバルドゥに立たなければ神と戦うことは出来ない。み仏よ、我にご加護を……)
 斗椀はその場でさらに経文を唱え、意識を更に高い場所へと導こうとした。薄闇の空間が次第に歪み、あちこちで破れだした。破れた穴から、真っ黒な闇が押し寄せてきた。それは死の闇だった。そこに引き込まれたら命はない。斗椀は闇と死の恐怖にさらされていた。しかし、山の洞窟で一度死を見た斗椀には恐れる気配はなかった。彼は必死に自らを光の領域に引き上げようと祈った。洞窟で一度見たチュウニー・バルドゥだ。彼が心の片隅に光を見つけ一段と声を高くしたとき、夢のバルドゥの上部が破れ、光が降り注いだ。
「うわーーっ!」
 マハーカーラが叫び声を上げた。一瞬にして夢のバルドゥは消え去り、世界が光に包まれた。そこはすでにチュウニー・バルドゥだった。斗椀の心の目に光の地平線に並ぶ仏たちの姿が映った。ヴァイローチャナ(大日如来)、アミターバ(阿弥陀如来)、アヴァローキテシュヴァラ(観世音菩薩)、バイサイヤグルー(薬師如来)……斗椀は感動のあまり両眼から滂沱として涙を流した。
 光の世界で涙している斗椀の耳に、どこからともなく笑い声が聞こえた。やがてその声は次第に大きくなり、和尚を現実の世界へ引き戻した。彼はマモル少年の部屋の祭壇の前に座っていた。
「しっかりしてください、和尚さん」
 彼を揺り起こしたのは升椀だった。側で笑っていたのは百合とマモル少年だ。
「和尚さん、悪魔払いは成功したんですよ、マモル君は正気に戻りました。和尚さんも正気に戻って下さいよ、涙を流しながらお経をあげてるなんて変ですよ」
「おお、そうか……だが、私はもう少し向こうの世界にいたかったよ。めったに見られない生の仏様たちを見ていたのでな……」
「なんのことですか、そりゃ?」
 頬の涙を拭いながら和尚が照れ笑いすると、再び部屋の中に笑い声が響いた。

 マモル少年の両親に何度も何度も礼を言われ引き留められたが、斗椀和尚は精魂尽き果てていたので、その夜は寺に帰って離れで眠った。真夜中を過ぎた頃、どこかで笑い声がした。斗椀はその声に聞き覚えがあると思って跳ね起きた。縁側に面した障子が何かの光に照らされていた。それは次第に大きくなった。それにつれて笑い声も大きくなった。
「なにものだ」
 和尚は障子を引き開けた。するとそこにはチュウニー・バルドゥで見た光とそっくりの光の渦があった。地平線に仏達も浮かんでいた。
「これは……」
 さすがに和尚もその怪しい光景が本当のチュウニー・バルドゥのものではなく、狐狸妖怪の仕業であることに気づいた。光の中から百合が現れた。
「ホホホ……和尚さん、悟りを開いたつもりでもあなたはまだまだですよ。悟りたい、神仏を見たいという心も所詮は欲望、そこを突かれるところりと騙された……あなたの見たものは私のバルドゥの影でしかないのよ、マハーカーラなんてものがこの世に出現するわけがないでしょ?」
「そんな馬鹿な……」
「目に見えるものを信じるあなたはしょせん奥深い心の悟りは得られないでしょう。山に戻って出直す事ね」
 百合が言い終わると同時に光は消滅した。和尚の眼前には離れの裏庭が映っているだけだった。 (完)


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